PINKへの旅のオーダー№1はスリランカ旅。この連載では、これからスリランカへと旅にお出かけの方に向けて、その魅力の一端をご紹介させていただきます。今回は旅行のリクエストのなかでもアーユルヴェーダと二分するスリランカが誇る「熱帯建築家」、ジェフリー・バワについてご紹介します。
CONTENTS
ジェフリー・バワとは?
世界に広く知られる建築家、ジェフリー・バワ(Geoffrey Bawa)。1919年、スリランカの上流階級に生まれ、弁護士になったものの1957年、38歳で建築家に転身という稀有な人生を歩んだアーキュテクトです。ではまず、彼の出生からお話ししましょう。
関連記事
まず、父方のバワ家はオランダ東インド会社のヨーロッパ人の末裔を指す「バーガー人」の血を引き、祖父の代から法律家。父の名は、ベンジャミン・ウィリアム・バワ(1865年生まれ)。ですが、祖父の死後、遺産は抵当に取られベンジャミンは苦学の末に法曹界で名を馳せる人物となり財産を築きました。
※注 「バーガー人」をヨーロッパ人とセイロン人の混血に対して使われていることが多いが正確にはオランダ東インド会社のヨーロッパ人の末裔
母は、オランダ系バーガー人を父に持つ1876年生まれのベルタ・シュレイダー。裕福であったシュレイダー家は、ドイツの都市、ブラウンシュヴァイク生まれのドイツ人傭兵の子孫でもあります。この家の娘は皆、弁護士に嫁ぎ、長女のベルタも同様にベンジャミンに嫁ぎました。こうして結ばれた夫妻は、ふたりの息子を授かりました。長男は、のちにランドスケープ・アーキテクトとなるベイビス・バワ。そして、次男がジェフリー・バワ(ジェフリー・マニング・バワ/以降、ジェフリーと表記)でした。しかし、父親はブライト病(腎臓炎)で1923年に療養先のイギリス北部ヨークシャー州ハロゲイトで死去。47歳で未亡人となったベルタは、息子たちを連れてスリランカのコロンボに帰国しています。
才能の開花と建築家への道
父を亡くしたもののバワ家が裕福であるのは変わりありませんでした。ベルタは家事や育児にあまり熱心ではなかったことからジェフリーは、乳母のエンサに育てられます。このエンサは、生涯ジェフリーに仕え1980年代に死去。ジェフリーの別荘兼実験室であった『ルヌガンガ』のジェフリーの墓のすぐそばに葬られていて、彼にとって特別な存在であったことが窺えます。
さて、恵まれた環境で育ったジェフリーは、コロンボ・ユニバーシティ・カレッジに入学後、イギリスに渡りケンブリッジ大学・セント・キャサリンズ・カレッジで英文学を専攻。そこで文学や芸術に秀でたいとこのジョージェット・カミーユとの縁が元で多くの前衛美術(アバンギャルド)のアーティストたちと交流を持つことになり、それが彼の感性を大いに磨くきっかけとなっていきます。
その留学時代、すでにインテリアへの関心とセンスは長けていて、素人ながらデザインに好評を得ていたといいます。また、この当時、ジェフリーはゲイである己のセクシャリティを受け入れ、スリランカで過ごした時代では得られなかった自由とアイデンティティ・さらに才能を開花させていったのでした。
しかし、その留学時代に糖尿病を患っていたベルタの容態が悪化。その看護とスリランカ催行の老人ホームといわれたワイチャーリイ老人ホームでの介護費、さらにジェフリーの7年に及んだ海外滞在費がかさみバワ家の財政は窮地に。結果、ジェフリーは帰国を余儀なくされます。1946年4月、ベルタは死去。母の死を悼むと共にその数年、逢わずにいたことを後悔し嘆いたといいます。
このとき、ジェフリーは27歳。兄のベイビスと共に金策に走り、一時は返済の兆しを見せていたものの母の遺産を相続したことで負債や相続税を背負うことになってしまいました。コロンボに戻ったジェフリーは弁護士として働き始めましたが、お坊ちゃん育ちの上に自ら認めるほど法律家の素養が低い。スリランカの暮らしにも嫌気がさし財産を処分し、母が亡くなった年の数か月後、サンフランシスコ行きの船に乗り込みます。18ヶ月に渡ったインドネシア、マレーシアのペナン、フィリピンを経由し東南アジア、アメリカ、ヨーロッパの旅に出たのでした。
旅するアーキュテクト ジェフリー・バワの誕生
こうして傷心旅行に出たジェフリーはイタリアに永住を決意。スリランカで所有していた不動産を売買する決意をしたものの取引きがうまくいかずにコロンボへと戻ることになります。失意のまま帰国したものの、実はこれが運命の分かれ道。コロンボから南に約65キロあるベントタでデダワ湖の岬にある古いゴム園の土地の存在を知ります。これがのちの『ルヌガンガ』。「塩の川」という意味です。
『ルヌガンガ』を得たジェフリーはイギリス時代にお世話になったジョージェットの手助けと助言を受け、建築家への道を歩みはじめます。友人の紹介で建築家の非常勤の助手として働き始めますが、1952年、専門技術を学ぶために再びケンブリッジに留学。建築だけでなくランドスケープの知識を深めるためにイギリス全土やイタリアへの旅も重ねています。AAスクールで学び、1957年6月に最終試験に合格、RIBA(王立英国建築家協会)の準会員に選ばれ帰国。スリランカに帰った彼は38歳の誕生日を迎えていました。こうして紆余曲折を経て建築家への道を踏み出したのです。
次回、【PINKで行く 「輝きの島」スリランカの歩き方3】は、その後の半生と、コロンボで人気のジェフリー・バワ関連施設をご紹介します。なお、『ルヌガンガ』他、PINKがお薦めするジェフリーのホテルに関する記事も追って公開を予定しています。お楽しみに。
撮影・文:泉美 咲月(Satsuki Izumi)
参考文献:「ジェフリー・バワの全仕事」(著者 ディヴィッド・ロブソン/日本語翻訳高橋正明/グラフィック社刊)
「IN SEARCH OF BAWA Master Architect of Sri Lanka」(著者 ディヴィッド・ロブソン/TALISMAN刊)
及び現地取材により執筆
これまでの連載【PINKで行く 「輝きの島」スリランカの歩き方】
独創的な熱帯建築家ジェフリー・バワの世界とスリランカのホテル
URL:https://www.loveandtravel.co.jp/bawa/
問い合わせ先:03-6264-0740
RECOMMEND
- 【続報】カレー好き、スリランカ料理ファン集合! and CURRY 阿部由希奈さんと行く スリランカ料理の旅<スリランカ料理界のレジェンド、パブリスシェフの実演&料理教室修了証付き>
- 熱帯建築家 ジェフリー・バワを知っていますか?【PINKで行く 「輝きの島」スリランカの歩き方2】
- <ツアー>1月28日(火)発 アーユルヴェーダで内面からも変わる、新しい自分に出会うスリランカ旅~アーユピヤサ6日間
- PINK スパイスプレゼントスタート!